昭和40年02月11日  夜の御理解



 今日は、久留米の光橋先生の所のあちらに布教に出られましてから、まる10年。今日、10年前の今日出られた訳になります。それに、まぁ云うなら、ささやかな記念式が行われたことでございます。ここからも私と家内に出て頂きたいと云うことでございましたから、参りました。お祭りも済み、お直会も頂き終わってから、こちらに送って喜代司さんに送って頂いたのが、「もう4時、4時過ぎかね、ね、今日どう云ったかね、だからもう、5時頃かね」喜代司さんが例によって送ってくれました。
 2階に、あちらで、体が悪かったですから、帰ってすぐ休ませてもらった。喜代司さんが言うことですね、「先生10年振りに、10年振りじゃない、10年目に怒られました」と言うこと。今日は大変厳しい御理解でしたんですもんね。あちらでは、10年目に怒られたと。毎年、皆さん御苦労さんと、本当に、こうしておかげ、段々、年々、再々おかげを頂くようになって、本当に有難い事だと。
 例えばそう云う意味の、その事ばっかりしか聞いてこなかったのに、まる10年目の日に怒られたと云うのが、その例えそのお祭りの、それは幾らかにぎやかになっておりましても、いわば繁昌いたしておりましてもですね。10年たてば教祖の神様が教えて下さるように「信心も10年と続いたら、我と我が心を祭れ」とさえ仰る。と云うことはですね、1年目よりも2年目、2年目よりも5年目と云うようにです。
 段々教会の信心の内容も変わってきて、本当に思うてみれば、有難い事だとゆうような10年たって、この位と云うのと、10年もようお使い回して頂いてここまで、まぁ挫折もせずに、おかげ頂く事が出来たと云うのとは大変な違い。いうなら教会自体が先生の信心を中心として、内容を拝められるようにならなければいけないのに、今日の、このお祭りは、どうした事か。私は丁度、参りましてからすぐ、白衣を着けさせて頂いた。白衣を着けた途端に、お腹が痛み出す。もの凄く痛むんです。
 とうとう又、白衣を脱いでから、それから、床を取るやら何やら、勿論、休みはしませんでしたけれども、それから私、神様に御無礼が出来とると御詑びさせて頂いとりましたら、『住友』と云う字を頂いた。住友生命とか、住友銀行の、あの、住友なんですね。だから、住友と云う字を一つ分解すると、イベンに主と云う字が書いてある。イベンが主と云うことである。
 人が主であると云うこと、友と云うのは、いわば、信心友達と云うことであろう。ね、今日は美登里会の方達が、12日に会をするのを、今日、光橋先生の所で1日繰り上げて、あちらでしょうと云うこと、いわば、信心友達が集まっとると云うことにすぎない。ね、所謂お直会が中心であり、人が中心であり、ね、人間が中心である。しかも、10年立った今日、そう云うふうな事で良いか。
 そう云うお気付けを頂いとるとじゃろう、私もそれを頂いてから、実際、実感としてです、もう私は、お祭りを仕えたらつーっと帰ろうかと思うた。、今日は楽員も来ておりませんし、ですから、私は先生をお先にさせた。ところが、第一驚いた事には、お鏡さん一つ作っていない。御饌(みけ)御神避(みき)、鏡餅と云う、鏡餅一つすら、いわば、神様の方は、神ながら人間の方は人間心をいっぱい使こうて、沢山のおごちそうを作っておる。これでは、おかげ頂けるはずはない。
 結局、お祭りを仕える私に、神様はお気付けを下さったんだと思ったから、私はですね、いつまでも親のすねかじりのような事はしちゃぁでけん。皆んなも、その通り、例え、お祭りを仕えると云うても、ね。お直会を粗末にしろとゆんじゃない、神様の方もです、ね、にぎやかにワイワイとするお祭りを、仕える事が出来て、そのお直会であるなら構わんのだけれども。ね、
 云うなら、なんちゅうざまか、こう云うお祭りで、お祭りが仕えられると思うか、10年立ったら、もうちっと親の手伝い出来るごとならないけんのに、それも、親のすねかじりの信心しちゃならんと云うような、成程、厳しい御理解だった。それを、その事を喜代司さん言う訳なんですね、10年振りに怒られた。10年振りにじゃない、10年目に怒られたと云う事はです。
 本当に、私共の、信心の成長と云うものを願うて下さる意味の事であることを、喜代司さん自身、分かっておったとこう思うですけどもね。始めの間は、花が咲いた事だけがおかげのごと思うと、立派にそんなら、お参りが沢山あって、御直会どんが出来りゃ、ほんに今日の御大祭、いや、今日の記念式はおかげ頂いたと云うだけでよかろう。お互いでもそう、お願いしとることが成就した。
 いわば、花が咲いた事だけが、おかげと思うておる。その花が散って、本当言うて、それが実った時が、本当のおかげなんだと、もう10年も立ったら、その位の事が分からんのかと云うこと。誰に頼むことがいるかと、神様一心に、おすがりさせて頂いて、神様に仕えさせてもらえる記念式であり、その御直会を頂いての、いわば御直会でなからなければ、今後意味がない。今までは、それで良かったろうけれどもと、云ったような意味の事だったんですけどね。
 それを頂いてみてから一つ、その、住友と云うことがいかにいわば、この神様は、ね、神情では動きなさるけれども、人情では動きなさらんと、ね、神情と人情がです、本当に交流して、本当に良い神情と人情のあい中、そう云う意味のものなら、真心と申しちょるけども、人情が勝っておったんでは、おかげにならん。何処までも信心ごころ。所謂、神情一筋でいかなければならない。人情では、神様は動きなさらん。その事が、今日は、もうはっきり分からせて頂いたような気がするんですよね。
 住友とすみはイベンに主である。人間が人間を中心にした、人間を主にした。ね、何処までも、神様が中心でなからなきゃならん。神様のお心が中心でなからなきゃならん。そこには例えば、ね、花が咲いておろうが、散っておろうが、実っておろうが、一切がおかげである事が分かる。又、そう云う働きも頂けれる。ね。いわば信心友達、成程美登里会の人達が集まっておりますから。
 更にそれに新しい信者さんが集まっておりますから、にぎやかなお参りでもあったしね、お参りは、お直会は。ところが神様の方ときたら、いわば、ただの月次祭と同じこと。所謂、お鏡さん一つ出来ていないと云ったような事では今後の為にならん。と云うて、まぁこれは、めいめいですけども、私自身も一段、その事を指摘して教えて頂いたような気が致しました。〔おかげ頂きました〕それから、そのお祭りをですね、あの奉仕し終わった途端に、私のこの腹が、ちょっと止まっておることです。
 まだ、痛みおったのが、痛みませんけれども、やはり、急に痛みましたもんですからね、なんと云うですか、腹の中とてももたないと云う感じでしたから、休ませて頂きましたけれども、あそこのように痛まない。それっきり、痛まないのですねぇ。神様は、そんなに、いうならあらたかなんです。そう云う働きを、おかげの上に下さるなら、信心を分からせて下さる上にも、下さると云うことが分かるですね。おかげ頂きました。